1. HOME
  2. シアル酸糖鎖物質
  3. ②自然界と感染症の流行

近年、インフルエンザや新型コロナウイルスなど、動物から人へ広がる感染症が世界的に問題となっています。これらの感染症の流行を理解するためには、ウイルスそのものだけでなく、自然界に存在する生物の体の仕組み、特に細胞表面の分子構造に目を向けることが重要です。その中で注目されているのが「シアル酸」と呼ばれる糖の分子です。

シアル酸は、細胞表面の糖鎖の末端に存在する酸性糖の一種で、細胞同士の認識や免疫調節など、生命活動に欠かせない重要な役割を担っています。人間を含む脊椎動物の細胞には広く存在しており、神経機能や細胞の安定性など多様な生理機能に関わっています。マウスの研究では、シアル酸を合成する酵素を欠くと胚の段階で生存できなくなることが知られており、この分子が生命維持に不可欠であることが示されています。

進化の観点から見ると、シアル酸は主に「後口動物」と呼ばれる生物群に広く存在しています。後口動物にはヒトを含む脊椎動物のほか、ホヤ、ウニ、ヒトデ、ナマコなどが含まれます。これらの生物では多様なシアル酸分子が確認されており、糖鎖構造の進化に重要な役割を果たしてきたと考えられています。一方、昆虫や軟体動物などの「前口動物」ではシアル酸の存在は比較的少なく、確認される場合も発生段階など限られた条件にとどまることが知られています。このように、シアル酸は自然界に広く存在する一方で、その分布には進化的な特徴が見られます。

このように多くの脊椎動物の細胞表面にシアル酸糖鎖が存在していることは、ウイルス感染の仕組みとも深く関係しています。多くのウイルスは宿主細胞の表面に結合することで感染を開始しますが、その際の受容体としてシアル酸糖鎖が利用されることが多いのです。インフルエンザウイルスはその代表的な例で、細胞表面のシアル酸糖鎖に結合することで細胞内へ侵入します。

特にA型インフルエンザウイルスは宿主域が非常に広く、人間だけでなく鳥類、ブタ、ウマ、ウシ、イヌ、ネコ、さらには海洋哺乳類など多くの動物に感染します。自然界ではカモなどの水鳥が主要な宿主とされ、そこから家禽や哺乳類へ感染が広がることがあります。インフルエンザウイルスの表面には、ヘマグルチニン(HA)とノイラミニダーゼ(NA)というタンパク質があり、HAは細胞表面のシアル酸糖鎖に結合して感染を開始します。インフルエンザウイルスには多くの亜型が存在しますが、抗原性が異なっていても、基本的にはすべてシアル酸糖鎖を受容体として利用するという共通の特徴を持っています。

このような感染の仕組みは、インフルエンザが動物から人へ広がる理由を理解するうえでも重要です。シアル酸糖鎖が多くの動物の細胞表面に存在するため、ウイルスは動物間を移動しながら進化し、新しい変異株が生まれる可能性があります。実際に、過去のパンデミックの多くは動物由来のウイルスが人に適応した結果として発生しています。現在でも季節性インフルエンザは毎年世界で約10億人が感染し、多くの重症例や死亡例が報告されています。

こうした感染の仕組みを逆に利用した予防法として、シアル酸糖鎖に似た構造を持つ物質を用いてウイルスを先に捕捉する「疑似レセプター」という考え方も提案されています。ウイルスが細胞に結合する前にこれらの物質に結合すれば、細胞への侵入を防ぐことができます。さらに、この方法はウイルスが変異しても基本的な感染機構が変わらないため、幅広いウイルスに対して応用できる可能性があります。

自然界におけるシアル酸の分布を理解することは、インフルエンザの流行やウイルスの進化を考えるうえで重要な視点を与えます。生命にとって不可欠な分子であるシアル酸が、同時にウイルス感染の鍵となる分子でもあるという事実は、感染症研究に新しい理解をもたらしています。今後、この分野の研究が進むことで、ウイルス感染症の予防や制御に役立つ新しい技術の開発が期待されています。

静岡県立大学名誉教授・鈴木康夫