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  2. シアル酸糖鎖物質
  3. ③人体のシアル酸と感染症

近年、インフルエンザをはじめとするウイルス感染症を理解するうえで、「シアル酸糖鎖物質」が重要な役割を持つことが明らかになってきました。シアル酸は細胞表面の糖鎖の末端に存在する分子で、生命活動に欠かせない一方で、多くのウイルスが感染の足がかりとして利用する特徴を持っています。本章では、ヒトの体内におけるシアル酸糖鎖の分布とその働きについて解説します。

シアル酸には自然界で50種類以上の分子種が存在しますが、ヒトにおいて主に存在するのは「N-アセチルノイラミン酸(Neu5Ac)」です。一方で、他の多くの動物に存在するNeu5Gcはヒトではほとんど存在しません。これは進化の過程で関連遺伝子の機能を失ったためであり、ヒト特有の生理機能や感染症との関係にも影響しています。

ヒトの体内では、シアル酸は脳・呼吸器・免疫組織・血液などほぼ全身に存在しています。主に糖タンパク質や糖脂質として細胞表面に分布し、α2-3α2-6α2-8など多様な結合様式を持ちます。この違いは組織ごとに異なり、シアル酸は「細胞の顔」として細胞間の認識や情報伝達に重要な役割を果たしています。

シアル酸の働きは、大きく4つに分けられます。
第一に、細胞表面に負の電荷を与える働きです。これにより赤血球や血小板は互いに反発し合い、過度な凝集を防ぐことができます。また、シアル酸が失われると細胞の寿命が短くなることも知られています。

第二に、感染症との深い関わりです。インフルエンザウイルスは、気道上皮のシアル酸糖鎖に結合することで感染を開始します。ヒト型は主にα2-6結合型、鳥型はα2-3結合型を認識し、この違いが宿主域や病原性を左右します。また、一部の病原体は宿主のシアル酸を取り込み、「分子擬態」によって免疫から逃れる戦略を持っています。新型コロナウイルスやHIVも、宿主由来の糖鎖を利用して免疫回避を行うことが知られています。

第三に、免疫調節機能です。シアル酸は「自己」を示す目印として働きます。補体制御因子は細胞表面のシアル酸に結合することで、自己細胞への攻撃を防ぎます。一方、シアル酸を持たない細菌は免疫に認識されやすく、排除されやすくなります。つまり、シアル酸は免疫のバランスを保つ重要な役割を担っています。

第四に、神経系との関わりです。神経細胞ではシアル酸が付加された分子が細胞間の結合を調整し、神経回路の形成や学習・記憶に関与しています。特にポリシアル酸は、神経の発達や可塑性を高める重要な分子です。

さらに、シアル酸を認識する分子として、セレクチンやシグレックがあります。これらは免疫細胞の移動や炎症反応に関わり、免疫・炎症の調整に不可欠です。また、がん細胞もシアル酸を利用して体内を移動しやすくなるなど、病態との関係も示唆されています。

このように、シアル酸はヒトの体内で多様な重要機能を担う一方で、多くのウイルスが感染に利用する標的でもあります。実際、ヒトに感染するウイルスのうち20種類以上がシアル酸糖鎖を利用して細胞に侵入します。さらに、ウイルスが結合する構造は変異しにくく維持されやすいため、感染の成立において重要な要素となっています。

この性質を逆に利用した新しい感染予防法として、シアル酸糖鎖に似た物質でウイルスを先に捕捉する「疑似レセプター戦略」が注目されています。この方法は、ウイルスの変異に影響されにくいという利点があり、将来的な感染対策として期待されています。 シアル酸は、生命維持に不可欠でありながら、感染症の成立にも関わる「二面性」を持つ分子です。この仕組みを理解することは、ウイルス感染の本質を知り、より安全で効果的な予防法を考えるための鍵となります。今後の研究の進展により、新たな感染対策の可能性が広がることが期待されています。

静岡県立大学名誉教授・鈴木康夫