
前回は、感染に宿主細胞のシアル酸を利用するウイルスについてのお話しで、
多くのウイルスがシアル酸糖鎖を認識して細胞へ侵入し、感染を成立させていることをご紹介しました。
今回は、その一歩手前にある「発見の物語」です。
シアル酸はどのように見つかったのか。
そして、インフルエンザウイルスがシアル酸を利用して感染することは、どのような研究によって明らかになったのか。
感染症研究の歴史を変えた重要な発見について見ていきましょう。
シアル酸研究の始まり
現在では、シアル酸がウイルス感染に深く関わることが知られていますが、その発見は約90年前にさかのぼります。
1936年、スウェーデンの生化学者グンナー・ブリックスは、ウシの口腔粘液から未知の酸性物質を発見しました。
その後、この物質は1952年に「シアル酸(Sialic Acid)」と命名されます。
当時は、この分子が生命活動にどのような役割を持つのかはほとんど分かっていませんでした。
しかし、その後の研究によって、シアル酸は細胞表面に広く存在し、細胞同士の認識や免疫調節など、生体にとって重要な働きを担うことが明らかになっていきました。現在では、シアル酸は生命維持に欠かせない分子の一つとして知られています。
シアル酸ファミリーの発見と構造解明
一方、ドイツの研究者クレンクは、テイ・サックス病患者の脳に蓄積する特殊な糖脂質を発見し、「ガングリオシド」と名付けました。
さらに、その構成成分として「ノイラミン酸」を単離しました。
当初は別々の研究として進められていましたが、その後の研究によって、シアル酸とノイラミン酸が密接に関係することが分かり、1950年代後半には現在のシアル酸の概念が確立されました。
さらに研究が進むと、シアル酸は単一の分子ではなく、多様な分子群からなることが判明しました。
ヒトに最も多く存在するN-アセチルノイラミン酸(Neu5Ac)のほか、N-グリコリルノイラミン酸やKDNなどが発見され、現在では50種類以上の関連分子が知られています。
この発見は、糖鎖生物学という新たな研究分野の発展にも大きく貢献しました。
インフルエンザ研究が大きな転機に
シアル酸研究を大きく前進させたのが、インフルエンザウイルスの研究でした。
1941年から1942年にかけて、アメリカの研究者ジョージ・ハーストは、インフルエンザウイルスとニワトリ赤血球を混合すると、赤血球同士が集まって塊になる現象を発見しました。
これは現在「赤血球凝集反応」と呼ばれています。
さらにハーストは、時間が経つと凝集が解除され、一度解除された赤血球は再び凝集しなくなることを発見しました。
この観察から、インフルエンザウイルスには細胞表面の受容体に結合する働きと、その受容体を破壊する働きの両方が存在すると考えました。
この発見は、ウイルス感染における「受容体」という概念を確立する重要な転機となりました。
現在でも赤血球凝集反応は、ウイルス量や抗体価を測定する基本的な検査法として利用されています。
シアル酸が感染の入り口だった
その後の研究により、ハーストが発見した受容体はシアル酸を含む糖鎖であることが明らかになりました。
また、受容体を破壊する酵素の正体は「ノイラミニダーゼ」であり、シアル酸を切断する働きを持つことも分かりました。
現在では、インフルエンザウイルス表面にはヘマグルチニン(HA)とノイラミニダーゼ(NA)という2種類のスパイクタンパク質が存在することが知られています。
ヘマグルチニンは細胞表面のシアル酸糖鎖に結合し、感染の第一歩を担います。
一方、ノイラミニダーゼはシアル酸を切断することで、新たに作られたウイルスが細胞から放出されるのを助けます。
つまり、感染の開始にはヘマグルチニン、感染の拡大にはノイラミニダーゼが必要なのです。
さらに研究が進むと、鳥インフルエンザウイルスは主にα2-3結合型シアル酸を認識し、ヒトインフルエンザウイルスは主にα2-6結合型シアル酸を認識することも明らかになりました。
この違いが宿主特異性を決定しており、鳥インフルエンザウイルスがヒト型レセプターを認識できるように変異した場合には、新たなパンデミックにつながる可能性があります。
そのため現在も世界中で継続的な監視が行われています。
抗ウイルス薬開発への応用
シアル酸とインフルエンザウイルスの関係を解明した研究は、感染症対策にも大きく貢献しました。
特に、ノイラミニダーゼがウイルスの放出に不可欠であることが分かったことで、ノイラミニダーゼの働きを阻害する抗インフルエンザ薬の開発が進みました。
現在広く使用されているタミフルなどの薬剤は、この研究成果を基盤として誕生したものです。
このように、シアル酸の発見からインフルエンザウイルス感染機構の解明に至る研究の歴史は、単なる基礎研究にとどまりません。
ウイルスがどのように細胞を認識し感染するのかという基本原理を明らかにし、現在の感染症対策や抗ウイルス薬開発の基盤を築いてきました。
さらに近年では、シアル酸を利用した新たな感染予防技術の研究も進められており、将来のパンデミック対策への応用も期待されています。
シアル酸研究の歩みは、感染症との闘いを支える重要な科学的財産といえるでしょう。

静岡県立大学名誉教授・鈴木康夫